大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和32年(ワ)8492号 判決

本訴原告(反訴被告) 原口歌

右代理人弁護士 青柳洋

本訴被告(反訴原告) ケイ・ブリングスハイムこと 西尾奎

右代理人弁護士 馬場東作

福井忠孝

主文

本訴被告は本訴原告に対して東京都港区赤坂青山南町二丁目七三番の三所在の家屋番号同町七三番の五、木造瓦葺平家建居宅一棟建坪一一坪五合を収去してその敷地一一坪五合を明渡すこと。

反訴原告の請求を棄却する。

訴訟費用は本訴、反訴ともすべて本訴被告(反訴原告)の負担とする。

この判決は、本訴原告において金一〇万円の担保を供するときは、第一項に限り仮りに執行できる。

事実

(双方の申立)

本訴につき、本訴原告は主文第一、第三項同旨の判決及び仮執行の宣言を求め本訴被告は本訴原告の請求を棄却する。訴訟費用は本訴原告の負担とするとの判決を求め、

反訴につき、反訴原告は東京都港区赤坂青山南町二丁目七三番の三宅地八八坪四合四勺につき反訴原告が一〇分の三の共有持分権を有することを確定する、訴訟費用は反訴被告の負担とするとの判決を求め、反訴被告は主文第二、第三項同旨の判決を求めた。

(本訴の請求原因と反訴の答弁)

(一)、本訴原告(反訴被告)(以下、単に原告という)は訴外玉窓寺からその住職山志田長博を介して、昭和二三年一一月一五日玉窓寺所有の東京都港区赤坂青山南町二丁目七三番の三宅地一一五坪一合六勺、同所同番の四宅地三三坪四合、同所同番の五宅地一九坪八合八勺、右合計一六八坪四合四勺の宅地を代金一〇万円で買受け、翌一六日にその所有権移転登記をうけた。その後、昭和二五年九月に右七三番の三の宅地を分筆し、七三番の四及び五の宅地を合筆して、七三番の三の宅地八八坪四合四勺と七三番の四の宅地八〇坪とし、七三番の四の宅地八〇坪は他に売却したが、七三番の三の宅地八八坪四合四勺(以下、本件土地という)は現に原告の所有に属する土地である。しかるに、本訴被告(反訴原告)(以下単に被告という)は法律上の権限なしに本件土地の上に主文第一項掲記の建物を所有してその敷地一一坪五合を不法に占有しているので、土地所有権にもとづき右建物を収去してその敷地を明渡すべきことを求める。

(二)、原告は被告の実姉であつて音楽家であるが、終戦後は父亡竹次郎及び母志げをと共に東京都大田区北千束町四三七番地の富田弥四郎方の一部を借受けて居住していたが、被告は当時米軍総司令部に勤務し、経済科学局長ケニー博士の秘書をしていた。ところが、被告は氏名をケイ、ブリングスハイムと称し、ベルギー生れでソルボンヌ大学卒業というようにその身分経歴をいつわつていたことがわかつて、米軍犯罪調査部(CID)の取調をうけついに総司令部から追放されてしまつた。こうして、被告は職場も住居も失つてひどい苦境に立たされたが、父竹次郎は被告との同居をかたく拒むので、原告は被告に同情し、両親とも相談の上で土地を購入して原被告それぞれの住居を新築する気になり、たまたま被告から玉窓寺の住職山志田長博が寺院復興のため土地を分譲することを聞いて、被告の紹介で山志田を識り、同人を介して玉窓寺から前記三筆の宅地を代金一〇万円で買受けたものである。なお、買受代金は手持ちのグランドピアノを三六万六千円で他に売却し、さらに衣類、寝具等を処分して得た二〇万余円のうちからこれを支弁したものである。

そして、原告は右三筆の宅地の南側に、被告はその北側にそれぞれ建坪一九坪五合の住宅を新築して居住していたが、被告は総司令部から追放された後は適当な職もなく、健康上の理由もあつて被告所有の住宅を維持してゆくことが困難になつたので原告に対してその住宅を土地づきで他に売却したいそして売却後は原告の住宅に接して自分の住居を建増したいと懇請してきたので原告もこれを承諾した。こうして昭和二五年九月前記三筆の宅地は分合されて七三番の三(八八坪四合四勺)と同番の四(八〇坪)の二筆になり、被告はその住宅とその敷地になつている同番の四の八〇坪を訴外黒川愛子に売却した上、原告の住宅に接して自分の住居として建坪一一坪五合の本件建物を建増したのである。なお、当時、本件土地の時価は坪当り二千円位いになつていたが、姉妹のことでもあるので、原告は被告から前記売却代金のうちから一〇万二千円を土地代として受取つている。

原告は昭和二九年一一月スイスに留学し、昭和三一年四月に帰国したが、帰国してみると、被告はすでに他に移転し本件建物をアメリカ軍人に賃貸していた。本件建物と原告の住宅は玄関を共通にし、壁一重を隔てて隣り合つているので、原告はアメリカ軍人のために何にかとその日常生活をかきみだされることになつた。もともと原告は被告だけが本件建物に居住し、他人は住わせないという条件で被告に建増を許したのであるから、被告に対してできるだけ早くアメリカ軍人を退去させ、本件建物を原告に渡譲するか又は賃貸するように申入れたが被告はこれに応じないので、被告に対して本件建物敷地の使用貸借を解除する旨を通知し、かつ占有移転禁止の仮処分を執行した上、ついに本訴を提起するのやむなきに至つたものである。

(三)、右の(二)の事実は事情として述べるものであつて、請求原因として主張するものではないが、右のとおり、本件土地は原告の単独所有に係るものであつて、被告のいうように母志げをと被告の共有に属するものではないから被告の反訴請求は失当であつて原告の本訴請求こそ認容さるべきものである。

(本訴の答弁と反訴の請求原因)

本件土地について原告主張のような原告名義の所有権移転登記のあること、被告が右地上に原告主張のような建物を所有してその敷地を占有していることは認めるが、本件土地を買受けた者は原告ではなく、被告と母の志げをであつて、原告は単なる登記簿上の名義人にすぎない。その事情は次のとおりである。

原告主張の三筆の宅地は訴外玉窓寺の所有であつたが、昭和二三年一一月一五日被告とその母志げをが玉窓寺の住職山志田長博を介してこれを代金一〇万円で買受け、その頃右代金のうち被告が金三万円を、母志げをが金七万円を支払つたものであつて、原告は代金の支払にも契約の締結にも全然関与していない。原告は、グランドピアノや衣類等を処分して資金を調達し、自から代金一〇万円を支払つて自分が買受けたものだというが、これは全くのいつわりである。原告は昭和二九年に国立音楽大学の講師になるまでは定職もなく、無収入であつて、すべて両親及び被告の援助によつて生活していたものであるから原告に一〇万円の代金を支弁する能力などある筈がない。なお、被告はケイ・ブリングスハイムの名で米軍総司令部に勤務していたことはあるが、身分経歴をいつわつたかどで取調をうけたこともなければ総司令部から追放されたようなこともない。

前記三筆の宅地は、右のように被告と母志げをが共同して買受けたものであるが、当時存命中の亡父竹次郎と母志げを及び姉妹である原被告が共同してここに居住する意向があり、かつ両親も老齢であつたため、便宜上原告を登記名義人として登記したにすぎないのである。なお、玉窓寺から買受けた前記三筆の宅地は昭和二五年九月原告のいうように二筆に分合されたが、被告は七三番の三の八八坪四合四勺(本件土地)を残し、他の七三番の四の宅地八〇坪をその地上の建物とともに訴外黒川愛子に売却し売却代金のうちから金一一万円をピアノ購入代金として原告に貸与したものであつて、原告のいうように土地代として金一〇万二千円を原告に差入れたような事実はない。

右のとおり、本件土地は原告の所有ではなく、被告と母志げをの共有地であつて、原告は一〇分の三の持分権を有するものである。したがつて、所有権者たることを前提とする原告の本訴請求は理由がなく、原告は被告の共有権を争うので原告に対し被告が本件土地につき一〇分の三の共有持分権を有することの確認を求める。

(証拠関係)≪省略≫

理由

本訴の争点は、本件土地が原告の所有に属するのか、それとも被告及びその母志げをの共有に属するのかという一点である。そして、本件土地が東京都港区赤坂青山南町二丁目七三番の三、同番の四及び同番の五の三筆の宅地一六八坪四合四勺の一部であつて、右三筆の宅地がもと訴外玉窓寺の所有であつて、玉窓寺がその住職山志田長博を介してこれを売却したものであることは当事者間に争いのないところである。したがつて、本訴の争点は、結局、玉窓寺から右三筆の宅地を買受けた者が原告なのか、それとも被告及びその母志げをの二人なのかという点に帰着することになる。

原告は昭和二三年一一月一五日右三筆の宅地を代金一〇万円で買受け、翌一六日その所有権移転登記をうけたものであるといい、被告は前同日被告と母志げをが代金一〇万円で右宅地を買受け、被告が金三万円を、母志げをが金七万円を支払つたものであるという。そして、原告がその主張のような所有権移転登記をうけていることは当事者間に争がない。この事実は原告にとつてきわめて有利な事実である。しかし、一方、証人山志田長博、原口志げを及び原被告各本人の供述によれば、買主が何人であるかの点はしばらく措き、玉窓寺は右三筆の宅地を代金一〇万円で売渡し、右代金のうち三万円は港区芝白金三光町の被告の住居で被告の手から山志田に渡されており、残金七万円は大田区北千束町の母志げを等の住居で志げをの手から同じく山志田に渡されていることが明らかであつて、しかも右の宅地売買に関する権利証が現に被告の手裡にあることは被告が成立に争のない乙第九号証(権利証)を所持している点からして明瞭である。これらの事実は、一応、被告の主張を裏付けるに足る資料とみなければならない。本件は肉親間の紛議であつて、双方の間に激しい感情のうねりと対立があり、しかも肝要な証人である山志田長博の言動及びその証言にはやや明確を欠く嫌のあるものがあつて、事実の認定にかなりの困難を伴わないでもないが、結論を示せば、当裁判所は、本件土地の買主は原告であつて被告等ではないと判断する。その理由は次のとおり。

(1)  代金の支払関係について

前記三筆の宅地の買受代金一〇万円のうち三万円を被告が、残金七万円を母志げをが山志田に手交したものであることは前示のとおりであつて、証人原口志げを(第一回)及び被告本人の供述(第一、二回)並びに被告本人の第二回の陳述によりその成立を認めることのできる乙第一一ないし第一五号証によれば、当時被告等が右の代金を調達するだけの資力がなかつたとは認められない。この点に関する証人金平愛子及び原告本人の各供述はにわかに採用できない。

ところで、証人原口志げをは、その第一、二回の証言を通じて、当時自分ら夫婦は大田区北千束町四三七番地の富田方に間借しており、被告はすでに独立し、原告は被告方にいたが、被告が玉窓寺から前記三筆の宅地を買取る話をきめたので、自分らも被告に合流して右宅地に自分らの住宅も一緒に作ることになり、被告にその旨を話して諒解を得たが、被告から電話で手附金三万円は自分の方で支払つたから残金七万円を支払つて欲しい、残金は地主が直接受取りに行くから地主に渡してもらいたい、といつてきた。そして、昭和二三年六月に山志田長博がやつてきたので、同人に七万円を支払つてその受領証を受取つた。その際山志田は宛名を書きまちがつて、「原口志げを」と書くべきところ「原田志げを」と書いた。この受領証は自分が持つていたが、本訴提起後の昭和三二年九月ごろ被告から借してくれとたのまれたので被告に渡したと述べ、

また、被告本人はその第一回尋問の際、自分は昭和二三年二、三月ころ山志田と話をして玉窓寺から前記三筆の宅地を代金一〇万円で買取ることに話をきめた。そのうち原告が家出をして港区芝白金三光町の自分の住居にやつてきたので、その旨を電話で母に連絡すると、母も心配していて、自分が母に前記三筆の宅地約一八〇坪位のものを買約していることを話すと、母は自分らもその話に合流したい、その青山の土地に家を二軒建てないかというので、自分もそうするのが一番いいと思つて母の話に賛成した。そのころ姉の原告も土地をさがしていたので、姉を同道して山志田を訪ね、ながびいていた売買の話を再確認してその翌日手附金三万円を支払つて、山志田からその受領証(乙第一号証)をもらつた。但し、乙第一号証の「昭和二十三年五月十日」という日附と「ケイ・プリングスハイム殿」という宛名は本訴提起後に山志田にたのんで書き込んでもらつたものである(この日附及び宛名挿入の点は証人山志田長博の第一回証言からも確認できる)。自分は、母からの合流の話を承諾したとき、手附金は自分が払つた、残金は山志田がいついつもらいにゆくから払つてもらいたいと打合せをしておいた。あとで母が母の金で七万円払つて山志田から受領証をもらつた。自分は本訴が起きてから母から七万円の受領証を借りた。見ると、宛名が「原口志げを」ではなく、「原田志げを」になつているので、右の七万円の受領証と自分が直接もらつた前記三万円の受領証(乙第一号証)を持つて山志田を訪ずれ、「山志田さん、ちよつと見て下さい」といつて示すと、山志田は、「これはしまつた、失敬しました、それじや自分が書き直してあげましよう」といつて、「原田」を「原口」に書き直そうとしたが、うまくゆかなかつたので、山志田は自分が持つて行つた七万円の受領書をやぶつて、彼が書きくずした元の受領証をみてそれと全く同一内容の新しい受領証を書いてくれた。これが乙第二号証の受領証である。したがつて、乙第二号証の「昭和二十三年六月十二日」という日附は母が山志田からもらつた元の受領証に記載されていた日附である。なお、前記乙第一号証の「昭和二十三年五月十日」という日附は、三万円を支払つた時の日附を自分がおぼえていなかつたので山志田の記憶をたずねたところ、山志田が七万円もらつた時から一月少し前にいただいたように思うというので、二、三日のちがいは問題になることもあるまいと思つて、彼の記憶どうりに日附を書き入れてもらつたものである。なお、また、自分が乙第一号証の受領証に右のように日附や宛名を書き入れてもらつたのは、不備な書類を裁判所に提出してはいけないと思つて善意でしたことであつて他意があつたわけではない、と述べていたが、その第二回尋問の際には、自分が母からの合流の話をはつきり承諾したのは手附金三万円を支払つた日の前日である。その後母に三万円支払つたことを告げると、母は残金は母の方で支払わせてもらいたいというので、山志田に母の住所と電話番号を知らせて残金の請求は自分の方へしてくれてもいいし、母に直接話してくれてもよいといつておいた。山志田は自分には連絡せずに直接母に話して母から七万円を受取つたもので、その日時は昭和二三年六月であると述べている。

被告本人が、右のように、本訴提起後に乙第一号証の三万円の受領証に宛名及び日附を記入したことはおだやかならざることであつて、そこに疑惑を容れる余地が大いにあるし、被告本人の第一回陳述と第二回陳述との間にも相当の食違がみられるが、これらの点はしばらくこれを問わないにしても、証人原口志げを及び被告本人の右供述によれば、母の志げをが残金七万円を山志田に支払つたのは昭和二三年六月中であつたことになるが、当裁判所は、次に述べる理由から、少くともこの点は事実に反するものであると考える。

(イ)、証人山志田長博は、その第一回尋問において、原告と被告はしばしば自分を訪ねてきたが、二人は親戚のことでもあり、自分は代金さえ払つてもらえばよいので、買主が原告であるか被告であるかというような点には重きを置かず、どつちでもよいと思つていたが、母の原口志げをが買主になるというような話は一度もでなかつたと供述し、また、(ロ)その第一、二回尋問を通じて、七万円は北千束のお宅でお母さんからもらつたが、その時期は秋から冬にかけての寒い日の晩であつた。そのとき自分は受領証を書いたが宛名は、はつきりしないが、原告の原口歌子としたように思う。乙第二号証の七万円の受領証は昭和三二年一〇月ころに被告にたのまれて書いたもので、記載内容については責任をもてないと供述し、さらに、(ハ)その第二回尋問において、その後自分は自分が書いてお母さんに渡した七万円の前記受領書を他の人から見せられたこともないし、被告本人の前記陳述にあるように、宛名の「原田志げを」を「原口志げを」に書き直そうとしたが、うまくゆかなかつたので、これを破ぶり捨てたというようなこともないと供述している。当裁判所は、これらの供述は、七万円の受領証の宛名が原口歌子(原告)と記載されていたかどうかの点を別にすれば、すべてこれを措信できるものと考える。これらの事実にかんがみると、証人原口志げを及び被告本人の前記供述のうち少くとも母の志げをが昭和二三年六月中に残金七万円を支払つて、山志田から「原田志げを」を宛名人とする七万円の受領証をもらつたという点は事実をいつわつた供述であると判断せざるをえない。

果してそうだとすると、証人原口志げを及び被告本人の前記供述のうち母志げをが自から残金七万円を出捐したことも、右七万円支払の前提となつているいわゆる合流の点に関する供述も、さらにその前提となつている被告本人による手附金三万円の支払に関する供述もすべてくずれてきて、容易に信を措きがたいものになつてしまう。蓋し、これらの事実は相互に切り離すことのできない一連の事実だからである。そして、その当然の結果として原告本人のこの点に関する陳述の信憑力が一段と強められることになる。当裁判所は、原告本人の陳述(第一、二回)するように、代金一〇万円はこれを原告が出金したものであるが、支払の便宜を考えて、内金三万円は昭和二三年八月頃これを被告に託し、残金七万円は同年一〇月末頃これを母志げをに託して同人等の手を通して山志田に支払つたものと認める。なお、この点に関する原告本人の陳述は少しも乱れがなく、十分措信するに足るものと認められる。

被告はこの点に関し原告には支払能力が全くなかつたから一〇万円の代金を支弁できる筈がないというが、証人室田有の証言(第一、二回)及びこれによつてその成立を認めることのできる甲第六号証、証人金平愛子(第一回)及び原告本人(第一、二回)の供述を綜合すれば、原告は土地を買入れて家屋を新築するため手持のグランドピアノをフイリツピン大使に売約して手附として六万円(これは手付流れとして原告の所得になつた)を受領し、右売約が破棄された後にこれを三六万六千円で静岡英和女学院に売渡しており、他にも結婚衣裳や夜具、写真機などを高島屋で処分して相当多額の資金を調達していたことが認められ他にこれを左右するに足る証拠がないので、被告の右主張は採用できない。

また、乙第一号証の三万円の受領証が被告の手裡にあることは前示のとおりであるが、証人山志田長博(第一、二回)及び原告本人(第一回)の供述を綜合すると、山志田は、作成の日時及び場所は必ずしも判然としないが、三万円の受領証を数回に数通作成していることが認められ、現に原告の手裡にも同文の受領証が二通(成立に争のない甲第八号証の二及び山志田証人及び原告本人(いずれも第一回)の供述によりその成立を認めることのできる甲第八号証の一)あることが明らかであり、しかも乙第一号証の「ケイ・ブリングスハイム殿」という宛名及び日附は前示のとおり後日の記載に係るものなのであるから、乙第一号証の受領証が被告の手裡にあることは、その入手の経路がいかようなものであれ(この点は本訴にあらわれた証拠関係のもとでは必ずしも判然としない)、被告自から右の三万円を出捐したことの確証となるべき性質のものではないとみるのが相当であるから、この点も少しも前段の認定の妨げとなるものではない。

(2)、登記名義の関係について

原告が本件土地の所有名義人として登記されていることは当事者間に争がなく、その権利証が被告の手裡にあることは前示のとおりであるが、どういう経緯で原告名義で所有権移転登記がなされるに至つたのか、また、どういうわけで被告が権利証を手にしているのかという点は本訴にあらわれている証拠からは必らずしも明瞭ではない。しかし、前示のように、本件売買の衝にあたつた玉窓寺の住職山志田長博は買主は原告でも被告でもどつちでもよいと思つていたのだし、原告は前示のように買主としてその代金を支払つているのであるから、右の諸点を審究するまでもなく、本件土地の所有権は原告に移転したものとみて差支ない。

被告は原告は登記簿上の単なる所有名義人にすぎないと主張し、証人原口志げを及び被告本人はそれぞれこれに副うような供述をしているが、これらの供述には重要な点において相互に矛盾するものがあつて、とうてい措信できず、むしろ逆に被告の右の主張が架空のものにすぎないことを窺わせるに足るものがある。すなわち、被告本人は、その第一回の陳述において、母から自分に対して数人の名前で届けるわけにもゆかないし、両親も老齢だから世間でよく長男名義に登記するように姉である原告の名義で登記をしたらどうだろうかという話があつたので、自分は権利証を自分がもらうことを条件にしてこれに賛成し、山志田に原告を登記名義人にすることを伝えて原告名義に登記したものであると述べているが、証人原口志げをは、その第二回証言において、被告から原告が原告名義で登記するといつているという連絡があつたので自分はこれに反対したが、二、三日すると被告から原告名義で登記を済ませたといつてきた。父は親をないがしろにしていると怒つたが、自分は世間にもよくある例だ、権利証を被告に保管してもらうことにすればよいではないかとなだめて、被告の持参してきた権利証を被告に渡したのであると述べている。

これらの供述は明かに矛盾し、双方の供述の信憑性をほとんど無にするのみならず、そこに作為の跡を看取せしめるに足るものがある。原告が単なる登記簿上の名義人にすぎないという被告の主張はとうてい採用できない。なお、被告本人は、その第二回尋問に際し、第一回尋問の際は原口家の内情をあらわにすることをおそれて最少限度の供述をしたのであるが、母がその第二回尋問の際に内情を公けにしたので云々と弁疏して、母志げをの前記証言と辻つまを合せるような陳述をしているが、右の弁疏及び陳述は本件訴訟のこれまでの推移、ことに被告側の主張の内容及び被告本人の陳述態度からみて、遺憾ながら、当裁判所において採用し難いものであることを附言しておく。

(3)  その他の証拠関係について

証人山志田長博の第一回証言によりその成立を認めることのできる乙第七号証には被告の主張に副う記載があるが、この記載は、右証言によれば、被告にたのまれて被告のいうとうりに記載したにすぎないものであることがわかるので、これをもつて前記判断を左右する証拠とすることはできない。

また、昭和二五年九月に前記三筆の宅地が分合されて七三番の三と七三番の四となり、七三番の四の八〇坪がその地上にあつた被告所有の建物とともに訴外黒川愛子に売却されたことは当事者間に争がなく、証人黒川愛子の証言によれば、同人は被告を所有者だと思つて専ら被告と交渉していたことがわかるが、原告本人の陳述(第一、二回)によれば、原告は被告に右宅地の処分をまかせていたことが認められるので、この点も前記判断の妨げとなるものではない。

なお、また、右の土地及び建物の売却代金の処理についても原被告間に争があり、原告は右代金のうちから一〇万二千円を土地代として被告から受取つたといい、被告は一一万円をピアノ購入資金として原告に貸与したというが、証人金平愛子及び原告本人の供述(いずれも第二回)並びに原告本人の右陳述によつてその成立を認めることのできる甲第二四号証の三を綜合すれば、原告がピアノを購入したのは昭和二六年一二月であることがわかるので、原被告間における右金銭の授受はピアノ購入資金とは関係なく、むしろ原告本人の陳述(第一、二回)するよう土地代として一〇万二千円を交付されたものと推認するのが相当であつて、この点に関する証人原口志げを及び被告本人の供述は採用できない。このことは、本件土地をふくむ前記三筆の宅地の買受人が原告であることを示すものといわなければならない。のみならず、証人原口志げをの第二回証言の一部及び右証言によつて成立を認めることのできる甲第一九、第二〇号証の各一、二並びに証人金平愛子及び原告本人の供述(いずれも第二回)を綜合すれば、原告は昭和二九年からスイスに留学したが、原告のスイス留学中母志げをは原告に対して本件土地は原告の所有地であるから、被告がその地上にある本件建物を処分しようとしても地主たる原告の承諾がなければこれを買受ける者はあるまいという意味の手紙を送つていることが認められる。証人原口志げをの右証言のうちこの認定に反する部分は採用できない。この事実も亦前記判断を裏付ける有力な資料といわなければならない。

なお、被告本人は前示のように、前記三筆の宅地は昭和二三年二、三月ころ自分が山志田と交渉して代金一〇万円で買受けることに話をきめたものであると陳述し、山志田証人の第二回証言のうちにもこれに合うような供述があるので、或いは原告の支払つた代金一〇万円は被告のとりきめた売買契約の履行としてなされたものであるというような見方があるかも知れないが、これは実体に則した見方ではない。この点はすでに判示したところから明瞭であると思うが、念のため一言つけ加えておけば、原告本人の第一、二回陳述によれば、昭和二三年八月ころ原被告が連れだつてはじめて山志田を訪ねた際、被告は山志田に対して土地がまだ処分されていないことと売値に変動のないことを確かめた上で売買の交渉を進め、その際同行した原告を顧みて「この親戚の人が買いますから」といつている(この点は第二回陳述による)ことが認められるので、本件土地の売買は初め被告が話をつけ、その後に原告がこれに加わり、前段認定のように原告がこれを買受けたものと認めるのが相当であつて、他にこの認定を左右するに足る証拠はあらわれていない。

右のとおりであるから、本件土地は原告の所有地であつて、被告とその母志げをが共同して買受けた土地ではない。そして、被告が本件地上に原告のいうような建物を所有してその敷地一一坪五合を占有していることは当事者間に争いがないのであるから、その所有権にもとづいて被告に対して右建物を収去して敷地の明渡を求める原告の本訴請求はその理由があるが、土地の共有者たることを前提としてその持分権の確認を求める被告の反訴請求はその理由がない。よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、仮執行の宣言につき同法第一九六条を適用して主文のとおり判決する

(裁判官 石井良三)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例